台湾と中国で焼き肉レストラン「乾杯」などの飲食店を展開する「乾杯グループ」。台湾における日本スタイル焼き肉の先駆けとなった同グループ創始者で社長の平出荘司さんに、同じく台湾企業の日本人社長である編集長の秋山が話を聞いた。
秋山:台湾在住でない読者に向けて、自己紹介をお願いします。
平出:乾杯グループは、1999年6月5日にオープンした焼き肉店で始まり、現在は台湾と中国で和牛素材を中心とした焼肉業態、鍋業態を展開しています。現在、台湾では43店舗、中国では22店舗を展開し、台湾では肉の卸売りとECサイトも運営しています。
秋山:台湾で焼き肉店を創業したきっかけを教えてください。
平出:私は東京都町田市出身で、日本人の父と台湾人の母を持ち、高校を卒業して台湾に留学しました。高校生当時、留学費用を稼ぐために一番時給の良いバイトを探していました。当時1990年前後はバブル期で景気が良く、高校生にして時給950円も稼げる渋谷の居酒屋でアルバイトを始めたのがこの職業との出合いです。当時非常に楽しくて自分はこの職業に向いていると自覚したのを覚えています。高校卒業後に台湾に渡り、語学学校を経て台湾の大学へ進学しました。語学学校にいたころ母が東京で経営していた台湾小料理屋の近所にあるホルモン焼きチェーンのオーナーが、母と一緒に台湾に遊びに来ました。そのオーナーが台湾を気に入り、母と店を出すことになったのです。そんな縁で私が手伝うこととなり、一度日本に帰ってホルモン焼きの修業をして2年ほど、その店を手伝い、台湾の大学に合格したタイミングで学業に専念することにしました。その当時、母は既に亡くなっており、母が生前学費としてためてくれていたお金でしばらくは学業に専念した生活を送っていたのですが、大学2年時に友達の紹介で、台北市内で焼き肉店を経営している女性と知り合いました。その方も自分と同じく日台ハーフで、日本に帰国したいので、この焼き肉店を買わないか? と持ちかけられました。とてもじゃないが学生には買えない値段だったので断っていたところ、どんどん値下げされ、最終的に月賦でいいという誘いに乗って父に相談し、大学を卒業することを条件にチャレンジを認めてもらいました。それが現在台北市の東区エリアにある乾杯です。1999年当時大学3年生の時でした。当初毎日8時になると従業員2人と僕で結婚式のようにテーブルを回って「乾杯」をして、お客さまが一気に飲み物を飲み干したら同じ飲み物をサービスするというイベントを行っていました。それがある時、「せっかくだからみんなでやったら?」というアイデアが出て、20時になるとMCがお客さまを紹介した後、皆で一斉に「乾杯」をするのが乾杯の名物となりました。そしてそれが話題となり、一気に繁盛店となったのです。
秋山:「8時の乾杯」のイベントで盛り上がりを見せ、そこから多店舗展開のステージに入ったと思いますが、日本育ちの平出社長が台湾で経営していく上で何か大変だったことはありませんでしたか?
平出:とにかくさまざまなラッキーが重なったと思っています。1999年は台湾中部の911大震災が起きた年です。乾杯はオープンから3カ月で大震災に遭い、営業時間中に計画停電で制限されて辛かったこともあります。しかし、そもそもその頃はまだお客さんがあまりいなくて大きな被害はありませんでした。一度、大きな台風により東区エリアで大洪水が発生し、店が水没したこともあります。店の地下室がプールみたいになってしまいました。当時その店で働いていたのは僕の大学の同級生がほとんどで、そのうちの一人が体育学部の学生だったこともあり、大学のプールからポンプを借りてきて水を抜いて早期に営業を再開することができました。いろいろありましたが、あまり辛いと思ったことはありません。飲食店で一番辛いことは、お客さんが入らないことだと思いますが、1999年の台湾は空前の日本ブームもあって、多くの若者が食べに来てくれました。開店前にお客さんが店の前に並んでくれて、22時を過ぎても行列状態でした。並んでくれているお客さんに謝りながらも、どこから来たのか尋ねてみると遠くは高雄から来てくれたお客さんもいて、ありがたいと同時に申し訳なく、皆さまにより多くのテーブルを用意したいと思ったのが多店舗展開のきっかけです。
もう一つ、私は輔仁大学の哲学科に通い、面白い同級生がたくさんいて、一緒に乾杯で働いてくれていました。しかしそこから見えた課題もありました。当時は飲食業という職業のポジションが低く、レストランで働くことに対して親の同意を得られずに、大学卒業とともに一緒に働けなくなったメンバーがいたのです。それでこの環境やレストランに対する価値観を変え、立派な「企業」にしたいと思ったのです。台湾で店舗拡大する際、外国人だったこともあり、銀行でお金を借りられず5店舗目までは全て自己資金で出店しました。当時はアルバイトしてくれているメンバーと共にシェアルームに住んでいました。それができたのも、みんなが若くて楽しかったからだと思います。
今振り返ってみても大変だったことはそんなにありません。
秋山:奥さまとも学生時代に知り合ったのですか?
平出:妻とは、2008年ごろに先輩に勧められた自己啓発セミナーで知り合いました。彼女は小学校の先生だったのですが、すっぴんでジャージーを着ていたので大学生かと思い、乾杯のアルバイトに誘ったのがきっかけです。自己啓発セミナーはすごく盛り上がるじゃないですか。すぐに結婚しちゃいました。
秋山:自己啓発セミナーって自分の余計な殻を破って対話しますもんね。そうした意味では、互いの理解も早く、お付き合いもしやすいのかもしれませんね。
平出:結婚直後、全く日本語が話せない妻に1年間、日本に留学してみないか? と提案したところ、迷わず行ってくれたので日本語が話せるようになりました。そうでなければ妻は日本人同士の会話に、この先もずっと入れなかったと思います。言葉のほかに日本の文化や日本人の考え方なども理解してくれるようになったので、行ってくれて本当に良かったと思っています。
秋山:これまでの事業展開におけるキーポイントなどについて、お聞かせください。
平出:今振り返るといくつかポイントがありますが、先ほど言ったように空前の日本ブームと重なったこと。そしてもう一つは台湾人の牛肉の消費量が増えるタイミングと重なったことです。台湾は豚肉、鶏肉はおいしいけれど、牛肉の自給率は5%しかなく、残り95%は輸入に頼っています。どこの国もそうなのですが、所得が上がると国民の牛肉の消費量も正比例で増加していきます。それは牛肉が他の肉類に比べて値段が高いからですが、1999年創業当初の台湾での1人当たりの牛肉の消費量は1年で1キロ弱と記憶しています。豚と鶏肉は年間30キロ以上なのに、牛肉の消費量は非常に少なかったのです。それが今は1人当たり7キロ以上に増え、主に焼き肉や鍋で牛肉が消費されています。牛の消費量が増えるタイミングで店を始めたことは非常に大きなポイントだったと思います。
そうした中、2003年12月にアメリカで狂牛病が発生し、アメリカ牛が台湾に入って来なくなったことが私たちにとって好機となりました。焼き肉に合う牛肉の大前提としてはグレインフェッド(穀物肥育)であることが非常に重要です。ざっくり言うと、アメリカはグレインフェッドの牛が多く、ニュージーランドやオースとラリアはグラスフェッド(牧草肥育)の牛が多いと言われています。グラスフェッドのオーストラリア産の牛肉はあっさりし過ぎて焼き肉で食べるには味気がなく、従業員が「こんな肉は乾杯で売るべき肉じゃない」と熱い声を発しました。それをきっかけに知り合いの紹介をツテに肉を求めてオーストラリアに飛びました。当時牛肉を扱う商社のほとんどは大企業や大手飲食チェーンしか相手にしてくれない状況だったのですが、私の声に耳を傾けてくれた商社(当時住金物産→現日鉄物産)がありました。親身になって話を聞いてくれて数カ月後には東京でビーフ課の課長を紹介していただき、2004年8月から毎月1300キロのコンテナでオーストラリアのグレインフェッドの牛肉を仕入れることができるようになりました。それが住金物産との付き合いの始まりですが、その後ビジネスパートナーとして一緒に事業を大きくしていこうと声をかけていただき、2011年に業務提携しました。その後、セントラルキッチンや物流のインフラを整えたことにより現在のようなチェーン展開が可能になりました。
秋山:基本的に大企業としか取引のない商社から肉を卸してもらえるようになったというのは、平出社長の熱意が伝わったのでしょうね。そこからどのように中国大陸へ進出していったのですか?
平出:2015年に上海外灘にあるビルのデベロッパーから中国1号出店の声がかかったことがきっかけです。中国で、当時我々が得意としていた豪州和牛の冷蔵肉の物流が解禁されたタイミングだったこともあり、チャンスと思い出店を決めました。2016年に中国初のミシュランガイド上海版で焼き肉店として世界で初めて1つ星を獲得したことにより、いろいろなデベロッパーから声をかけていただき中国各地で出店することができました。
秋山:平出社長は愛妻家であり、家族ともしっかり向き合っていらっしゃる印象がありますが、仕事と家との両立において何か秘訣(ひけつ)やコツはありますか?
平出:土日に仕事をしないことです。以前は1週間毎日仕事をしていましたが、今では1週間は5日間だと割り切っています。夜がメインの商売なので平日は帰りが遅いですが、土日は家族の時間にしています。今思うと、コロナ前は毎月、中国や他の国への出張や日本に行くことも多く、台湾にいる時間が半分以下でした。コロナ禍で中国のメンバーは大変だったと思いますが、僕は台湾に居るしかない状況でした。しかし台湾に腰を据えて子どもや家族との絆は深まり、台湾の経営についても考えるいい機会になりました。
秋山:平出社長自身は個人的に何の肉が好きですか?
平出:やはり牛肉です。私たちは牛肉のことを「キングオブミート」と呼んでいますが、牛肉は非常に面白く、産地、餌、血統、部位が違えば肉質も全く異なり、非常に複雑で、その複雑さが僕らのオタク欲をかき立てます。私は母が台湾人なので家であまり牛肉を食べずに育ちました。16歳の誕生日に母にねだって焼き肉店へ連れて行ってもらい、初めてちゃんと牛肉を食べて「世の中にはこんなにうまいものがあるんだ」と思ったのを覚えています。
秋山:昨年オープンした台北・天母の「Kanpai Classic」の店ではタスマニアの牛肉を使っていたかと思いますが、それはどういう経緯だったのでしょうか?
平出:タスマニア州にはRobins Islandという天母がある士林区と同じくらいの豪州最大の無人島があります。非常に美しい島で、実はそこで純血の和牛約4000頭が飼育されています。恵まれた環境の中ノンストレスで育ったここの和牛は豪州各地の有名シェフ達からも非常に人気があるのですが、乾杯グループはこの「Robins Island Wagyu」の最高グレードMBS9+の中でも焼き肉に適した13部位の独占使用権を得ることができました。和牛が持つ脂の甘さと肉の本来のうまみが詰まった本当に素晴らしい商品なので、特に外国人から高い評価が得られると思い天母にこの商品の専門店を作りました。
秋山:これから台湾で店を開きたいと考えている日本人に向けて、何かアドバイスをお願いします。
平出:私自身ラッキーだったと思うのは語学研修をして大学に進学した際、当時留学生が少なく、学部に他に日本人がいない環境でした。大学の寮に住んで台湾人と一緒に生活していたことで言葉と生活習慣を身につけたことが非常に大きかったと思います。20数年前には日本企業の駐在員もたくさんいたので日本人駐在者向けの日系料理店がたくさんありました。しかし私たちは最初から、日本人客ではなく台湾人客がメインターゲットでした。今振り返れば、それが良かったと思っています。同じように台湾で台湾人をターゲットに起業を考えているのであれば、マンダリン(標準中国語)が話せた方がいいと思います。
秋山:台湾の人たちと交流しながら、生活習慣や文化などしっかり根付いて深く理解することが大切ですね。
平出:お客さんもそうですが、一緒に働くパートナーも台湾人になると思うので、一番理解するにはやはり言葉だと思います。アドバイスをするとしたら、まず言葉はできた方がいいかなと思います。
秋山:すごく流ちょうに中国語をお話しになるので、子どもの頃から話せるのかと思っていました。
平出:全く話せなかったんですよ。そして台湾に来て中国語を勉強してから初めて、うちの母が話していたのは中国語ではなく台湾語だったんだと気づきました。それが分からないくらい中国語は全く話せませんでした。台湾人と接していると、皆勉強熱心で若い人が元気。政治に関心があって自分の意見を持っている人が多いと、よく感心します。そんな台湾の人たちに多くの日本のおいしいものを食べてほしいですね。
秋山:海外旅行が再開し、日本旅行に行く台湾人もまた徐々に増えてきています。私はインバウンドで、平出社長は飲食で、日本文化を盛り上げていきましょう。今日はありがとうございました。